2/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤「三芳」と「志手」 二つの住所

 ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤

二つの住所「志手」と「三芳」 その由来は?



 左の写真は2018(平成30)年12月に撮影したものです。まだ新型コロナウイルスの大流行が起きる前です。
 志手天神社では、大晦日の深夜の参拝者に年越しのそばやお神酒、甘酒をふるまい、新年を祝う催しが恒例となっていました。
 年の瀬となると、写真の「初詣は志手天神社へ」と大きく書かれた案内板が町内のあちこちに掲げられたものでした。新型コロナの影響でここ数年、この新年行事が取りやめになっているのは少し残念なことです。

 さて、今回取り上げるのは天神社の初詣ではありません。写真で注目いただきたいのは「ここは大分市志手5組」と書かれた住所の表示板です。

 Googleマップでこの場所を探すと「大分市三芳」と出てきました。

 「志手」と「三芳」。どちらも住所として使えます。私に届く郵便物の中には「三芳志手」の表記もあります。

 「志手」と「三芳」。二つの住所表記がなぜあるのでしょうか。細かく言えば、志手も三芳も「住居表示に関する法律」に基づく住所ではありません。三芳は「地番」であり、「志手」は通称ということになります。
 
 「志手」は昔から「志手」の地名でした。江戸時代の資料(豊後国郷帳=写真右)にも「志手村」が出ています。石高78石余りの小さな村だったようです
。その歴史を踏まえれば「志手」という住所が正当な名称に見えますが、土地登記簿にある地番は「三芳」です。

 なぜ「三芳」と表記するようになったのでしょう。その由来は明治時代初期の町村合併にありました。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだよりNo.14」に「『特集』志手の歴史Q&A」があります(左の写真)。14号は2003(平成15)年3月に発行されています。特集の質問と答えは全部で23項目あり、最初の質問は「志手の土地にはいつごろから人が住んでいたのでしょうか」でした。

 志手村の変遷については18番目の質問になります。問いは「明治以降、志手はどの村や町の区域に入っていたのでしょうか」(写真右)です。

 ふるさとだよりのQ&Aに基づいて志手の変遷を図にしてみました(左図)。志手村は明治8(1875)年に椎迫村、太平寺村と合併して「三芳村」になります。三芳村はさらに明治22(1889)年、旧荏隈村など3村と合併して「荏隈村」になりました。明治22年の市町村再編は「明治の大合併」と呼ばれています。明治の大合併で前年の明治21年に71,314あった全国の町村は5分の1の15,820に激減したといいます。
 明治の大合併によって三芳村はどうなったか。村の名前としては消える代わりに大字(おおあざ)として「三芳」が残ることになりました。つまり、志手や椎迫が「大字三芳」の地名でひとくくりにされることになったのは、明治22(1889)年以降ということになります。

                                        「大分県史 近代篇Ⅰ」(大分県総務部総務課編)の付録に「大分縣管内地図」がありました。左の写真は原資料に一部加工を施したものです。地図には「明治44(1911)年2月16日版権免許」「大分縣庶務課調製」とありました。人間の頭のような形をした国東半島、その“アゴ”の下は別府湾、別府湾に面して大分、別府両市があります。この地図の大分市を拡大してみたのが下の写真になります

 明治の大合併で「荏隈村」に再編された荏隈、永興、奥田、三芳の地名が記されています。三芳という地名は明治になって生まれ、現在も生きています。明治以前にあった志手もそのまま生き残ってきました。むしろ、志手に住んできた人たちにとっては志手と呼ぶのが自然だったでしょう。

 そんなわけで二つの地名が併存することになりました。


 それにしてもなぜ、志手村は椎迫村、太平寺村と合併することになったのでしょう。先に紹介した「大分県史」なども見てみましたが、小さな村の変遷などいちいち書いてあるわけもありません。今のところ「三芳村誕生」の経緯については何の手掛かりも掴んでいません。これも宿題です。


 ○追記 1956(昭和31)年発行の「大分市史下巻」の「市勢史」に明治時代の町村合併の推移があります。
 それによると、志手村と椎迫村、太平寺村の一部(北太平寺)が一緒になった明治8年3月の町村合併は大分県の都合によるもの。それまでの大小区では施政上不便が多いと感じた県は、合併改定を行い、17町・1801村を8町・792村に減らした、と大分市史は書いています。
 ちなみに明治8年の町村合併で荷揚町、松末町、府内町、笠和町、同慈寺町、南勢家町、千手堂町が合併して「大分町」となったそうです

 大分市史下巻からもう一つ。三芳村が荏隈村、永興村、奥田村と合併したのは明治17(1884)8月の県による改正で、この時は「永興村」となった。その後の明治の大合併で「永興村」は「荏隈村」に村名が変わった
   〈2023(令和5)年3月8日加筆〉

 いつの頃かは分かりませんが、志手でも住居表示を変えないかという話が出たことがあったようです。1組とか2組とかを「志手1丁目1-1」などに改める。しかし、その話は進まなかったようです。住居表示を変更する必要性を多くの住民が感じなかったからでしょう。実際に志手1組や志手2組で日常の不便はありません。
 とはいえ、大分市全体を見ると、住居表示に関する法律に基づいた住所表記の変更が着実に進んでいます。
 住居表示の変更は大分市中心部から始まり、郊外へと広がっています。大分市のホームページに住居表示実施地区一覧表があります。最新版は令和5(2023)年1月7日現在です。

 明治の大合併で旧三芳村と一緒になった旧荏隈村、旧永興村、旧奥田村の一帯も、2020(令和2)年から2021(令和3)年にかけて、「大字荏隈」などから、新住居表示に移り、「荏隈1丁目」などと表記されることになりました。

 今や大分市中心部近く昔風の住居表示が残っているのは志手や椎迫くらいかもしれません。そうなると、かえって希少価値が出て、簡単には変えられなくなるかもしれません。



 (注)総務省のホームページには、明治の大合併について
 近代的地方自治制度である「市町村制」の施行に伴い、行政上の目的(教育、 徴税、土木、救済、戸籍の事務処理)に合った規模と自治体としての町村単位 (江戸時代から引き継がれた自然集落)との隔たりをなくすために、町村合併 標準提示(明治21年6月13日内務大臣訓令第352号)に基づき、約300~500 戸を標準規模として全国的に行われた町村合併。結果として町村数は約5分の1に―と説明されています。 

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